ハリネズミのやさしさ

読み切り短編小説 大事な心を書き留めます。

人の愛のかたち

少年は電車に乗った。
でも行き先は決まっていない。
八つ当たりだ。


母親は毎日仕事で忙しく、ごはんは作り置き、顔を合わせることはほとんどない。
家にいても、どうせひとりぼっちだから、どこかへ行こうと思った。


少年は母親に嫌われているのかと思い始めていた。
少年はまだ小学生だ。
母親が一緒にいてくれない寂しさは絶大なのだ。


電車はどんどん進んでいく。
だけど雲はゆっくりだ。
少年の気持ちに反して、外は晴れ晴れとしていた。 

 

しばらくすると少年を眠気が襲った。
眼を覚ます頃には、乗客はいなくなり、電車はガランとしていた。


車内に居るのは少年の他に一人だけ。
制服を着た少女がいた。
彼女は少年の目の前に座っている。


「これはあなたの夢の中です。」
少女は喋った。
夢か。夢なんだ。少年は素直に受け入れられた。


少女は無表情。だけど何故か冷たい印象は感じない。


とりあえず名前を聞いてみる。
「ねえ、名前は?」
「わたしに名前はありません。」
「じゃあ、なんて呼ばれてるの?」
「君とかあなたとか、誰をよんでも通用する名前です」
「可愛そう」
名前をつけてくれる人がいないなんて、誰にも愛されていないみたいだ。


「そうでしょうか?私は不便を感じたことはありませんが。」
まるで機械のような口ぶりで少女は話す。
こんな話し方をする人に会うのは初めてだった。


「不便とか不便じゃないとか、そんなことじゃないよ。名前があった方が、親しみがある。」
「そうですか。それではあなたが名前を決めて下さい。」
「僕が?」
「はい。あなたの名前はあなたの母親があなたを想って付けたものでしょう?名前は自分で付けるものではありません。」


彼女の言うことはわかるが、そんな大事な役割を僕がしていいのだろうか。
彼女とはまだあったばかりだ。
だけど、そうか、これは僕の夢だ。彼女に名前をつけられるのは僕しかいないじゃないか。


「わかった。ちょっとまって」
そう言って少年は一駅分ほどの時間を考えることに使った。

 

 

「ひまり」


少年はぼそっと呟いて、俯いた。
「それが私の名前ですか?」
「うん」
「理由はなんでしょう?」
人に名前をつけるのなんて初めてで、恥ずかしかった。
そのうえ、理由を本人の前で語ればどうなってしまうのだろう。
でも、どうせ夢だ。
少年は恥ずかしさを振り払って言った。


「お姉さん、笑わないじゃん。だから笑顔の人に似合う名前にした。今のお姉さんには全然似合わないよ。だけど、その、笑ってほしいから、だからこそ、ひまり。」
「そうですか。ありがとうございます。」
少女はそう言って笑ったが、口の端を少し上げただけのぎこちない笑顔だった。
「ひまり」が似合うまで、まだまだ遠い。


無表情に戻した少女は言う。
「あなたは菊人さんですね。」
一瞬びっくりしたがここは僕の夢の中なのだから、少女が僕の名前を知っていてもおかしくはない。


少女は続ける。
「あなたの名前の由来です」
すると、視界が変わり、少年と少女は病室にいた。
「あなたを生んだ後のあなたの母親です。」
目の前には赤ちゃんを抱いた女性がいた。
少年の母親だ。
今より少し若い。

その横には菊の花がある。


母親は赤ちゃん頃の少年に語りかける。
「菊人。あなたの名前は菊人よ。私は菊が大好きだから、名前に入れたの。安直だって怒った?ごめんね。でも、ちゃんと理由があるの。私があなたの名前を呼ぶときに、あなたのことが大好きだって、その都度思い出すためなの。たとえあなたを叱ってる時でも、あなたのことを大好きだって忘れないようにね。」
菊の香りがして視界が車内に戻った。


「あなたは母親に愛されているのですね」
少女の声は穏やかだった。


忘れかけていたことを思い出した。
少年は母親に好かれていると、本当は心のどこかで知っていたんだ。
一人でいるのが辛くて、母親に嫌われていると思い込もうとした。

その方が楽になれた。


「あなたの母親は、あなたのために働いています。会えない時間は、あなたへの愛の証です。それでも、お母さんと一緒にいたいのなら、そう伝えればいいんです。きっと、時間を作ってくれるはずです。」

少女の声が、少年の心を溶かしてゆく。

 

「帰りたい。」

自分の声を聞いてから、家が恋しいと気づいた。


電車が止まって、ドアが開いた。

そこは家の目の前だった。

辺りは暗い。知らない間に夜になっていた。

窓には明かりがついている。


お母さんがいる!


少年は走り出した。電車から出て、ハッとして振り返ると、そこに電車はもう無かった。
しかし少女はそこに、しっかりと立っていた。


少年はホッとする。
お礼を言いたかったのだ。

「ありがとう、ひまりさん」


すると少女はひまりの名が似合う笑顔で笑った。